お遍路さん気分でゆこう
週末 四国八十八か所おさんぽ旅 in 今治
【第6回】金光山 最勝院 国分寺
お遍路さん気分でゆこう
週末 四国八十八か所おさんぽ旅 in 今治
五十九番札所 金光山 最勝院 国分寺
(こんこうざん さいしょういん こくぶんじ)
古代伊予国の文化の中心地
手水舎に近づくと、センサーが反応して“薬師の壺”から水がちょろちょろと流れだした。ほっこりしながら手を清めつつ視線を上げると、田園の向こうは山がちな景色だ。
国分寺の本尊は、薬師如来。奈良時代、聖武天皇と光明皇后の発願で各地に国分寺と国分尼寺が創建されたいきさつには、当時の社会不安や疫病流行があったとされる。
国分寺は「国府」の近く、国分尼寺の鐘の音の聞こえるところに建立されたといい、伊予国の国分尼寺跡は一キロ離れた桜井小学校跡と推定されている。地図を見ると、ここから見える低い山は戦国時代の山城跡がある霊仙山。いまはのどかな景色に戦乱の影はなく、週末の散歩をのんびりと楽しめそうな雰囲気だ。薬師如来のご真言「おんころころ せんだりまとうぎ そわか」を唱えて自身と家族の健康を願い、本堂、大師堂とお参りを終えて歩き出した。
「国府」とは、律令制のもとで諸国に設置された中央政府の出先機関だ。この中央集権を支えた地域支配の拠点が、伊予国では、「越智郡」にあった。が、正確な位置には諸説ある。10世紀ごろには、国府は諸国で律令制とともに衰退していくが、伊予国府は16世紀前半頃まで存続したといい、中世社会との密接な関わりがあったらしい。
かつての伊予国分寺も広大な寺域を誇り、それは全国の国分寺のなかでもトップクラスの規模だったという。律令期には、読経や法会のほか医療、社会事業なども担い、とりわけ学問の道場として重要な役割を果たした。
お寺を出て100メートルほど進むと、民家の脇に「伊予国分寺塔跡」がある。巨大な石がごろごろあるのが見えるが、これはかつて国分寺にあった高さ推定約60メートルもの七重塔を支えた礎石。当時は、現在の今治国際ホテル(高さ101.7メートル)並みのランドマークであったにちがいない。
国分寺からこの「伊予国分寺塔跡」まで向かう道に「史跡・名所の小路」という案内板が建っていて、少々古ぼけてはいるが、これを道しるべにおさんぽスタート。
南北朝のつわものが眠る丘
なだらかな坂を上ると、「史跡・名所の小路」の案内板が指さすスポットが見えてきた。
ちょっと字が薄れかけているが、読んでみると「脇屋義助の墓」。……お、お墓? 石段の上には、神社のお社のような建物が見えるが……。おそるおそる薄暗い階段を上りかけると、うっすら草が茂った地面が見える。
引き返そうか……。正直、少々不気味な雰囲気だが、とりあえず石段を上がりきり、こちらも字が薄れかけた看板の説明を読んでいると、静かな境内、いや静かすぎる墓地から少しゆっくりと歴史を旅しつつ歩きたくなった。
脇屋義助とは、南北朝時代の武将。兄は新田義貞で、ともに鎌倉を攻めて幕府を倒し武功を上げた。
南北朝時代とは、室町幕府成立をはさむ、半世紀あまり続いた動乱の時代。足利尊氏が擁立した光明天皇の京都の朝廷を北朝、一部の公家を集めて開設した後醍醐天皇の奈良・吉野の朝廷を南朝と呼ぶ。公家、武家、寺社までが両朝いずれかの側につく立場をとってしばしば分裂し、抗争が繰り広げられた。
足利尊氏は光明天皇を擁立した後すぐに征夷大将軍となり、京都に室町幕府を開設。三代目将軍の義満のとき、事実上南朝を解消する両朝合体(1392年)というかたちで南北朝時代を終わらせた。
脇屋義助は南朝方として足利軍と何度も戦い、新田義貞が戦死した後も、南軍を率いて奮戦しつつ吉野に逃れた。刑部卿(ぎょうぶきょう)に任ぜられて伊予に入ったのが1340年。国司を助けて北軍と戦い勢力をふるったが、2年後に病によりこの地で急逝した。
時代の背景を映し出す「脇屋義助廟」
南北朝の戦いの先頭に立ったような人物が、今治に、そしてこんなにのどかな地にひっそりと眠っていたとは……。
興味深いのは、脇屋義助が何度もその眠りから起こされてきたことだ。というのも、彼がこの世を去って300年後の記録には、墓として「印の石」があったといい、現在ある立派な石塔が資料に確認されるのは17世紀後半からだ。
この石塔は、国分寺住職の発願に応えて今治藩によって建立されたもの。藩が脇屋義助の墓を整備した理由はというと、ひとつには、当時南北朝時代の軍記物語『太平記』が広く政治思想書として読まれていたこと。もうひとつは、徳川家の祖は新田氏系の源氏といわれ、藩主松平定房(徳川家康の甥)ゆかりの人物だったことからという。
18世紀半ばより19世紀にかけて、四国八十八か所がブームとなるにつれて、国分寺近くのこの「脇屋義助廟」も多くの人が訪れる「名所」となった。一時は「附庵」という建物に人が常駐し、線香や花を供えて管理していたほどだった。
明治維新が起こると、南朝を正統とする思想に影響され、脇屋義助は神として国分神社に祀られることに。だが、廃藩置県で旧藩主が今治を去ると、神社は荒廃してしまう。明治35年頃、地元で起こった「脇屋会」を中心とする運動のなかで国分神社は再建されるが、最終的には、村社の春日神社に合祀された。
古の強将の魂は、昭和初期にも軍国主義の高まりのなかでまた揺さぶり起こされたが、今はどうだろう。私たちと同じく、この平和な田園風景のなかでなごんだりもしているだろうか。(不気味がってごめんなさい)
伊予“最強”の山城跡から望む“最高”のパノラマ
看板の字は薄れているが案内先は“濃い”ので、もう少し「史跡・名所の小路」を進むことにする。小高い丘沿いを進むと、大きなため池の堤の上を通り、道路に出た。道を渡って左に進むとすぐ、「唐子山遊歩道入口」の案内板が。
唐子浜には、潮干狩りや幼稚園のお泊り保育、懐かしい「唐子浜パーク」と、幼いころから何度も行ったことがあるが、唐子山には登ったことがない。唐子山は標高105メートルほど。標高約30メートルの唐子台からの出発だし、運動靴をはいているし、さあ行ってみよう!
……一分後。ああ、きつい。鉄の棒で支えた板とブロックとで作られた階段は、踏んだ土がえぐれるしで滑りやすい。でも、どんな景色が待っているかと思うと、足をどんどん前へ出すしかない。
唐子山には、かつて国分城があり、戦国時代末期から近世初頭にかけての乱世に、東予・中予支配の拠点だった。城主は村上武吉(能島村上水軍の大将)、福島正則、藤堂高虎など。
福島正則の時代には、城郭や堀、居館が築かれ城下町も築かれたという。が、藤堂高虎が入城するころには山城は不便となり、交通の便の良い平地に進出。慶長7年(1602)に、新城の普請を開始した。破壊された資材や石垣の石は、この今治城建設のために運ばれていった。
「わーーーー!!」
思わず、歓声が出た。まず見えたのは、海。もやがかかり、グレーを帯びた海には水平線がなく、空と一体になっている。海に向かって右手の桜井側も左手の市街の方も、来島海峡大橋まで旧今治市内の海岸線はほぼ見渡せる。もちろん今治平野は一望のもとだ。八幡山、作礼山も見える。
「あっ電車!」
田園地帯を電車が走り、まるで今治のジオラマを見ているよう。山の高さが絶妙で、肉眼で土地の様子が観察できるのだ。どこから敵が攻めてきても察知できるだろうし、たとえば数人寄ってのヒソヒソ話、悪い企みなんかあってもミス・マープル(アガサ・クリスティーによる推理小説の主人公で、詮索好きのおばあちゃん。噂話に耳をそばだて、村人たちの人間関係を把握。その観察眼をいかして事件を解決する)並みに暴くことができそうだ。さすが、山城跡。
ここから唐子浜の方へも下ることもでき、見慣れてきた「史跡・名所の小路」の道しるべには「今治藩主の墓」とある。今回は引き返して、車で唐子台から唐子浜方面へと下り、目的地へ向かうことにした。
歴史を下り、坂を下り、潮風の吹くほうへ
藤堂家の後、今治を治めたのは松平家。寛永12年(1635)、松平定房が今治城主に任ぜられて以降、この家系が10代にわたり、明治維新まで今治を治めた。もともと「今張」と呼ばれていた地が「今治」という名になったのは、藤堂高虎とも松平定房の治世ともいわれている。「今治藩主の墓」には初代、三代、四代の藩主が眠っている。
藩主の墓の脇には休憩所があり、県道38号をはさんで白砂青松の唐子浜が眺められる。そこで、道路沿いを歩いてすぐのお弁当屋さん「味乃里」でランチを調達。
コの字型に並べられたお弁当の真ん中には、「いろんな組み合わせがありますよ~」と店員さんの笑顔だ。ハンバーグやエビフライ、クリームコロッケなど魅力的なメインのおかずが2種類の取り合わせはさまざま。悩んでいると、おなかがぐう~~っと鳴った。休憩所へてくてく引き返していると突然、夫が「やっぱり、とり南蛮(単品)も!」と走っていった。
唐子浜の沖にある赤灯台は、明治35年に来島海峡に建てられた日本で5番目の洋式灯台。昭和53年に移され、いまも夏の海水浴客を見守っている。
思えば、今日歩いた道は、奈良時代創建の国分寺から南北朝の武将の墓、戦国時代の山城を経て、江戸時代の藩主の墓、そして明治の赤灯台……。たしかにこのおさんぽを導いた道しるべのとおり、「史跡・名所の小路」だった!
参考文献:村上紀夫「伊予国分寺と脇屋義助廟―札所と史蹟—」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター研究紀要『四国遍路と世界の巡礼』第7号p1
構成・文・写真/薮谷恵(Flowers Know)
旅のおとも ぶじカエルくん
古代から近世、近代までの遺跡が残る国分寺の周辺。今治の歴史がぎゅっと凝縮された、早春のおさんぽ道をゆく。