お遍路さん気分でゆこう
週末 四国八十八か所おさんぽ旅 in 今治
【第3回】金輪山 勅王院 泰山寺

お遍路さん気分でゆこう
週末 四国八十八か所おさんぽ旅 in 今治

旅のおとも ぶじカエルくん

たまにはしっとり雨にぬれた道を歩くのもよし。お地蔵さん、弘法さんが願う人々の幸せと、古代の遺跡が眠る実りの土壌に思いをはせるおさんぽ旅。

五十六番札所 金輪山 勅王院 泰山寺
(きんりんさん ちょくおういん たいさんじ)

弘仁6年(815)、弘法大師が人々を苦しめていた水害を鎮め、地蔵菩薩を刻んで本尊とし創建したと伝わる。寺名は『延命地蔵経』第十願の第一「女人泰産」にちなむ

弘法大師が建立したお寺

JR今治駅からひたすら真っすぐ、北へ北へと延びる道は、車の往来が絶えない国道196号線「今治バイパス」を越えると、打って変わってのどかな田園地帯の中を進む。この道は、かつて今治藩の主要交通路で「今治往還」と呼ばれていた。つまり、こちらは「昔の」今治バイパスだ。
この今治往還のお地蔵さんの脇に建つ道標が、泰山寺への路地を示してくれる。

お地蔵さんが見守る、泰山寺への風情ある路地
泰山寺の立派な石垣
この日は曇天。少し山のほうが明るくなってきた

稲刈りを終えたばかりでまだ黄金色の田んぼの先に、お城(今治城)を思い起こさせるような泰山寺の立派な石垣と白塀が現れた。かつては裏山である金輪山山頂に豪壮な伽藍を備えたというお寺だ。

暑すぎた夏から急に肌寒い秋となり、曇り空ではあるが“お遍路シーズン”の境内は、グループで、あるいはひとりで訪れたお遍路さんでにぎわっている。階段を上がって左側の大香炉から遠くを眺めると、南のほうの山のあたりから少し明るくなってきたようだ。

本堂は安政元年に再建された
大師堂。右側には、弘法大師像もたつ
鐘楼は、今治城内にあった太鼓楼の古材を用いて再建された

ここ泰山寺のたつ地は今治平野の西部にあたり、蒼社川の北岸に位置する。今治平野はこの蒼社川によって作られた沖積平野。そしてこの川は、土地を潤す恵みの川であるとともに、かつては毎年氾濫を繰り返し、このあたりでは「人取り川」と呼ばれ恐れられていた。

弘仁6年(815)、水害に苦しむこの地を訪れた弘法大師は、付近の人々を集めてともに堤防を築きあげた。そして土砂加持の秘法をおこない、七日目に「祈念成就」を告げにあらわれた地蔵菩薩の姿を刻み本尊として、お寺を建立したと伝わる。

お地蔵さんと弘法さんの優しい願い

この弘法大師・空海の土木技術は、香川の「満濃池」の修築でも有名だ。国土交通省のホームページを開くと、「日本の河川技術の基礎をつくった人々・略史」として奈良時代の僧侶・行基、同じく奈良時代の国造・和気清麻呂、そして平安時代の空海が記されている。……この時代までさかのぼっているのがちょっと驚きだが、行基といい空海といい、仏教と土木技術にはどんな関係があるのだろうか?

大師堂の横にある「大師不忘松」。蒼社川が鎮まり、お寺を建立した折、弘法大師が植えたといわれる松の三代目

空海は遣唐使として唐に渡り修行をしたが、そのとき世界的大都市・長安で、仏教や密教のほかにも詩文、書道、さまざまな工芸、建築や土木技術、医薬知識を学んだという。帰国後は、真言密教を確立するとともに、学んだ知識やすぐれた技術を活用し、伝え、広く社会福祉事業に尽くした。

弘法大師に湧水や井戸、灌漑治水に関する言い伝えが多いのはこのためだったのか。田畑の実りをもたらす灌漑治水の技術を携え、社会福祉の精神をもって人々を助けて歩いた行基や空海は、民衆から「菩薩」として慕われ愛された。

お地蔵さんは、「地蔵菩薩」といい、みずから地獄にまで赴いて、一人も残すことなく救済することを願う。子どものころは通学路のある四つ角にたたずむお地蔵さんに、友人となんでもお願いして手を合わせたものだ。この優しい菩薩さまは、そこかしこで、老若男女問わず誰かの傍らで微笑んでいる。

豊穣を祝う里の寺社めぐり

今回のおさんぽコースをどのように歩こうかと地図を見たとき、この辺りに寺社が密集しているのに気がついた。そこでまずは、泰山寺の右隣奥に鎮座する三島神社へ。

秋祭りの準備が万端で、参詣道の入口にはのぼり旗が建てられている。三島神社はこの地域、旧小泉村の村社。参詣道である石段を上がっている途中に振り返ると、田畑もちらほら見える今治平野の向こうに山が連なり、「悠久」という言葉を思わせる景色が広がる。

頭の中で文部省唱歌「村祭り」が流れ始め、お祭りの日に来たかったなぁと思いつつ階段を登りきると、美しく整えられた社殿にお神輿が。清らかな雰囲気、森の静けさ。人々がにぎやかに祝う前の、お祭りの大事な側面を垣間見たような気がした。

三島神社への参詣道は、泰山寺と塀を隔てて接している
清らかな雰囲気のなかお神輿が安置されていた
物語の世界へでも入っていきそうな、趣深い参詣道

三島神社のすぐ隣には、御鉾神社、大穴牟遅神社。さらに少し階段を上った位置に、里を見下ろす荒神社が鎮座する。三島神社は、延暦22年(803)に大山祇神社より勧請され、弘仁5年(814年)に伊予の国司によって社殿が造営、神領として山林、水田が寄進されるなど崇敬が篤かったという。

旧市町村制で隣村にあたる別名には、大山祇神社の社家である大祝の屋敷や所領があったと伝わる。戦国時代、鎧をまとい三島水軍を率いて瀬戸内を守ったという伝説の戦う乙女「鶴姫」は、この地で誕生したと語られている。いろいろ想像していると、静かな山景色が歴史で鮮やかに彩られていくようだ。

御鉾神社、大穴牟遅神社
荒神社で子どもが何かを発見
じっとり見られるかたつむり

暮らしに溶け込む奥の院、藤の寺の“愛され瓦”

三島神社から、ゆるやかに下る坂のほうへ。栗?かとおもうほど大きなどんぐりがころころしている。クヌギの実らしい。果樹や野菜が植わった段々畑を下ると、畑や木々に溶け込むようにひっそりと「弥陀八幡宮」があった。

栗の実かと駆け寄ったら違っていた
藪の中に佇む弥陀八幡宮

この弥陀八幡宮の前で、泰山寺から奥の院である「龍泉寺」に向かう道と合流。見慣れてきた「こっちですよ」と指さす道標がある。表面が削れてきてい見にくいが、ひらがなで「おくのゐん」と。

この道しるべのように、龍泉寺はとても庶民的なお寺だ。「奥の院」というと、山深く、ちょっと近寄りがたいイメージだが、こちらは親しみやすく、職人の手による「鏝絵(こてえ)」も愛らしい。

角度を変えながらよーく見ると、「おくのゐん」と見える
こじんまりとして、親しみやすいお寺だ
この道しるべを見落とさないように
「鏝絵」の十一面観音。鏝絵は左官職人がしっくいを使って鏝(こて)で浮彫にした絵。江戸時代中期に始まった

大熊寺は、樹齢四百年という藤で有名。数年前、春に見学しようとしたときはコロナ禍で入れなかった。もちろん今は季節的に花は咲いていないが、お寺の屋根と一体化したように広がる藤棚、幹の迫力と十分見ごたえがある。藤の咲く季節がとても楽しみになった。

もうひとつ、思わずカメラを向けたのが、本堂の屋根でよいしょ、と逆立ちした獅子。空を背景に気持ちよさそうでもあり、健気でもあり、かわいすぎる……!

民家の軒先にコスモスが揺れる
藤の花の季節が待ち遠しくなる大熊寺
本堂側から見た境内。あっ屋根の上に……
無防備に空に投げ出された後ろ足が素敵(個人的に)
向かって右の獅子がが「阿」と口を開き左は「吽」と口をむすんでいる
今治市指定の天然記念物のノダフジ。大きい幹の幹周は80㎝、棚面積は200平方メートルあるという。例年、5月の連休あたりが見ごろ
雨の日のおさんぽ仲間に、また会った
藤はつる性の植物。見たことがないくらい太いつるがねじれにねじれている

丘陵に眠る古代、中世の遺跡

泰山寺から大熊寺まで山裾を歩いてきたわけだが、この日高丘陵には、弘法大師や鶴姫の伝説に彩られたこのあたりの歴史を、一気に立体的にするものがある。それは、古代や中世の「遺跡」であり、現在発掘調査されつつある。

公益財団法人愛媛県埋蔵文化センター発行の『愛比売』(令和5年5月発行)によると、今歩いてきたあたりの丘陵上には、弥生時代の土器、また斜面を平らな土地に整え、排水のための溝や溜池などを備えた16世紀後半から17世紀にかけての山林開発を示す遺物が出土した。

伝説の鶴姫は1526年生まれ。大熊寺から西へ歩みを進めると旧別名村、鶴姫の生誕地でもある大祝家の屋敷があったといわれる地域に入る。

遺跡の発掘調査は今治新都市開発や道路の整備に伴い行われている。田んぼの向こうには、橋脚ができつつある
こんなに秋が短くても植物はちゃんと咲き、実る
開発が進んでも、変わりゆく景色と、変わらない景色とがあるはずだ

このあたり一帯では、もう少し人々の営みが鮮明になってくる。弥生時代のものでは、土器のほか、竪穴建物や、建物や作業場として使われた溝をともなう段状遺構が発掘されている。

古代では、竪穴建物や掘立柱建物や溝、土器も焼塩土器のほか、他の地域から持ち込まれたと思われる内側に布目あとのある土器などが出土。建物は形や大きさが推定されているものもあり、集落の図が浮かび上がる。使用されなくなった丸太と石積みで作られた井戸では、廃絶のときに祭祀を行った痕跡があるという。中に横櫛や蓋と推測される木製品が出土したためだ。

今回のおさんぽの終着点の入口
石塔は鎌倉時代から室町時代のものと考えられ、丘陵上に散乱していたものを地元の方々が積み直したという。「大祝さん」と呼ばれ守られている

また、一般の集落からはあまり出土しない緑釉陶器や風字硯、三足盤などの出土、周辺の遺跡で鍛冶炉や銅印が確認されていることから官営工房的な性格をもっていた施設が存在した可能性があるという。

そして、中世。丘陵斜面を造成してつくられた集落には、大型の総柱建物群もあり、銅製品や染付、天目茶碗や漆器も出土していて、有力者が居住していた可能性がある。なかでも天文15年(1546年)と記された墨書きの木札は、経櫃(お経を納めておく容器)に打ち付けられた札である可能性が考えられ、これは愛媛県内では初めての発見例となるかもしれないということだ。

……やはり、この地に大祝家の屋敷があったのだろうか? 幻の姫は??

道なりに歩いて民家の脇の坂を上がると、大祝一族の墓と伝わる石塔群がある。どんな出来事を見てきたのか、心のうちで尋ねてみたい。それは、身体をあたためるうどんとお寿司のお得ランチでお腹を満たしながらにしよう。

ランチを別名の「たわら」で。これで1,200円!うどん付きで幼児も納得?
鯨山古墳にも三島神社があり、お祭りの準備が整っている。「イオン」の向こうに見えるのが日高丘陵だ
遺跡熱が高まり、「鯨山古墳」(今治市馬越町)に寄り道。近くの一六で期間限定のタルトをゲット

構成・文・写真/薮谷恵(Flowers Know)