お遍路さん気分でゆこう
週末 四国八十八か所おさんぽ旅 in 今治
【第2回】別宮山 光明寺 金剛院 南光坊

お遍路さん気分でゆこう
週末 四国八十八か所おさんぽ旅 in 今治

旅のおとも ぶじカエルくん

今回は、朝のお散歩。ブランチには新旧入り混じった今治名物を数種類いただきます~♪

五十五番札所 別宮山 光明寺 金剛院 南光坊
(べっくさん こうみょうじ こんごういん なんこうぼう)

五十五番札所南光坊は、推古2年(594)に、大三島の大山祇神社の別当寺として創建されたのが起源と伝わり、この地に移されて千年以上の歴史がある。兵火に遭いながらも再興され、江戸時代以降は歴代今治藩主の祈願所となった。通路を挟んで隣接する別宮大山祇神社は、番外霊場。

ぶじカエルくん

どうして「寺」ではなく「坊」なのだろう?

今治市街地を走る国道317号線と県道38号線(旧国道196号線)のふたつの主要幹線道路は、「南光坊西交差点」で交わり、五十五番札所南光坊、今治市役所を通り、金融機関や裁判所が立ち並ぶ常盤通りへと国道が分岐する「ドンドビ交差点」まで“重なって”走っている。市役所の手前では、県道157号線(今治停車場線)、市役所前で県道14号線(今治港線)へと分かれる。つまり、今治市の“超”幹線道路だ。

サイクリストのための自転車道も整備された、ゆったりとした歩道を歩けば、市内に住んでいてもすっかり観光気分に。車窓の景色と歩くときの目線はずいぶん違っていて、広々とした道路の先の青空の下に市街地が広がり、別宮大山祇神社の壮麗な鳥居と、五十五番札所南光坊の豪壮な山門が見えてきた。

南光坊西交差点付近から見る南光坊
山門への石橋の架かる池には鯉がそよそよ泳いでいる
池のほとりにある弁財天と山門の持国天
境内側から見た、四天王が守る形式の山門。天井部には鐘があり、鐘楼になっている

まずは涼やかな池に架かる橋を渡り、南光坊の山門をくぐる。四天王が立つ門は鐘楼になっており、ひもを引き下ろすことで鐘をつくことができる。広々と開けた境内をまっすぐ進むと一番奥に本堂。ご本尊は大通智勝仏だ。八十八か所の札所のお参りするお遍路さんたちは、般若心経などのほか、「ご本尊真言」も三度唱える。

ここ南光坊では「なむ だいつうちしょうぶつ」。目を閉じて心静かに唱えれば、ご本尊と少しお話できたような心持ちに。本堂右脇の弘法大師像に目をやれば、その先はすぐ通路を挟んで「三」の字の神文が刻まれた別宮大山祇神社の玉垣だ。

弘法大師像には、脚絆(きゃはん)が奉納されていた
本堂。札所の本堂には、だいたいご本尊真言が掲示されているので、ほかに何も知らずとも唱えることができる
本堂右側には薬師堂。並んで金毘羅堂が建つ

そもそも南光坊は、大三島の大山祇神社の別当24坊のひとつとして創建されたといわれる。これがお寺の名前に「坊」がつく由来。8世紀前半この地に勧請された別宮大山祇神社に、南光坊を含む8坊が移され、天正年間(1573~1592)には、兵火でそのすべてが焼失したが、のちに南光坊のみが再興された。

大通智勝仏は、平安時代より浸透していた神仏習合の考え方により、大山祇神社の祭神で山の神、航海の神である大山積神の「本地仏」とされ、もとは別宮大山祇神社の社殿にあった。明治政府の神仏分離令により、境内は区切られて南光坊がお寺として独立、その本堂へ移された。そのときまで、南光坊は1300年以上別宮大山祇神社の別当寺だったのである。

別宮さんの大クスが語る今治空襲

薬師堂、金毘羅堂、大師堂にお参りし、山門を出て左へ。別宮大山祇神社の鳥居へ向かうが、山門脇の「今治市戦災の碑」の前で足を止める。

昭和20年(1945)、今治市が3度の空襲を受け、多くの犠牲が出たことが記されている。南光坊はこの空襲で、本堂など多くの建物を焼失。この広い境内には、金毘羅堂と大師堂だけが残された。今の光景からは信じがたいが、それは実際に起こったことなのだ。

金毘羅堂の前には、五十四番延命寺、五十六番泰山寺への道標
この大師堂と金毘羅堂以外の建物は、昭和20年の空襲により焼失した
大師堂の躍動的な彫刻に目を奪われる
今治市戦災の碑。大通りに向かい、静かに戦争の悲惨さを訴えている

別宮大山祇神社は、現在七十代の母によれば、子どもたちが毎日のように集う遊び場であったらしい。夏の日曜日の朝、地元の人たちが散歩がてら、また、自転車をふっと鳥居の前で止めてはお参りに訪れる。天正三年(1575)に来島城主村上氏により奉納されたという拝殿は、凛とした美しい佇まいだが、人の気配がとぎれることがなく、「別宮さん」という呼び名がふさわしい親しみ深い場所だ。

広い境内には、清髙稲荷神社、阿奈婆神社、荒神社、奈良原神社も祀られている
檜皮葺、平屋切妻造りの拝殿は、愛媛県指定有形文化財
昭和12年に社殿が新築され、移設されて絵馬堂となっていたが、新社殿が今治空襲により焼失。元の位置に拝殿として戻された

お参りを終えて振り返ると、大鳥居の脇のクスノキの迫力に驚いた。近づいてみればその奥にさらに大樹があり、二本は手をつなぐかのように枝を伸ばしている。建てられた説明書きを読むと、空襲で焼夷弾を受けながら再起し、拝殿(当時は絵馬堂)とともに戦災を免れたという。

今治への3回目の空襲は8月5~6日にかけてあった。今は頭上で大クスが、強くなっていく日差しをさえぎってくれている。南光坊では、同じく空襲に耐えた大師堂が、その立派な庇の下で、訪れる人々にほっと一息つかせている。

拝殿の向こうに、南光坊の大師堂の甍が見える
鳥居をくぐったときは、その大きさに気づかなかったほど大きなクスノキ
鳥居の脇のクスノキよりさらに大きなクスノキ。樹齢300年以上だそう

瓦礫からの今治市復興の道をたどる

かつての参道は長く、海岸に第一の鳥居があり、現在のものは第三の鳥居だったということで、別宮さんから海まで行く道を歩いてみようと思いつく。

熱くなってきた道路からの照り返しを受け、門前の人気洋菓子店のソフトクリームの置物にすごく惹かれつつも、心癒す緑のほうへ。「森見公園」を通り抜けていくことにしよう。

バラ、フジ、桜、その他四季折々の花が楽しめる森見公園。芝生の広場に沿った遊歩道を行くと、大型の遊具に登ったりぶら下がったり、歓声をあげて鳩を追いかける子どもたち、藤棚の下で涼をとる母子、おしゃべりを楽しむ人たちと吠えあう犬たち。子どもたちのはじける笑顔に笑いかけ、すれ違う人たちとなんとなく微笑み合って、笑顔との出会いは、おさんぽの醍醐味のひとつだと思う。

そんな公園の大きく茂った桜の下に「戦災復興記念」の碑がある。後日、図書館で開いた『今治戦災復興誌』の冒頭、市街地の航空写真に続いてこの碑の写真が掲載されていた。ページを繰ると、まさに「焦土と化した」市街地の写真。遠く望む近見山まで、市街地は土と瓦礫と、そして枝葉をもがれた立木のみだ。別宮さんの大クスも、こんなふうに痛ましい姿だったのだろうか。

鳥居を出て道路を渡ると、まっすぐ海へと道が通じる
森見公園は、今治空襲後の復興計画で計画された公園のひとつ
四季折々の花々が咲く、市民の憩いの場
これからも、笑顔があふれる公園であり続けますように

「焦土」となった今治市街地を想像し難いのは、この碑にあるとおり、目覚ましい速さで今治が復興を遂げたからだ。罹災してすぐ、今治市は市役所の焼け跡にて天幕張りで罹災証明の発行や炊き出しなどの応急事務を行った。別宮さんの倉庫を仮庁舎としたこともあった。

空襲のあった翌年から、復興事業は動き始めた。瓦礫の清掃から道路、下水道、そして公園・緑地の整備にいたるまで。この街のすべては、たくさんの命とものを失った戦災からの「復興」という、強い思いのもと作られたものだった。今歩いている、碁盤の目のように区画整理された土地を区切る道路の整備には、被災後の瓦礫も使われたのである。

老舗の菓子店、餃子店、料亭、喫茶店などが並ぶ今治っ子にとってのグルメ通り
森見公園側から見る「今治ラヂウム温泉」
本館は国の有形登録文化財。昭和2年(1927)、3年がかりの工事を経て完成した

森見公園を通りぬけて、2ブロック目に見えてきたのは、「今治ラヂウム温泉」。昭和17年頃には越智郡郷土防衛隊の本部が置かれるなど、その頑丈さで戦災もくぐりぬけた。瓦礫のなかに建つこの建物を目印に自宅を探した復員兵もいたという。

絵本で見たお城やドームのパーツをぎゅっと集めたような、あまりに魅力的な外観で、内部を空想するのは楽しい時間だ。母は子供のころ、何度も彼女の祖父に連れられここに来たという。「こう、まあるくなっとって(男湯女湯は八角ドーム形式のデザイン)、映画『テルマエロマエ』のお風呂みたいやったよ」という話だ。

かつてのお城下で、甘辛ブランチ買い回り

別宮さんの鳥居からまっすぐ海へ伸びた道に戻る。洋酒が香るカステラの今治名物を買いに通った老舗菓子店跡を過ぎると(お菓子は復刻されて市内のいくつかのお店が扱っていますよ♪)、「寺町」と呼ばれるエリア。

風情あるお寺が建ち並ぶなかをぶらぶらと行けば、今治城へと続く城下町からの目抜き通り「本町」に当たる。その角に今日のブランチを入手しようともくろむ「あわびや餅店」。写真を一枚撮る間にも、はやお客さんが入っていく。話題の「バター餅」を食べてみようと思うのだが、まだあるかなぁ。お店に入ると、大量の品物をつつんでもらい、さらに陳列されたバター餅、おはぎ、桜餅、わらび餅などを見つめ悩むお客さんの姿が。「……やっぱりおはぎも。……あとバター餅もください」「はいはい~」笑顔の素敵な女性が応じている。

お寺の立派な門が建ち並ぶ「寺町」に入る
数歩ごとにお寺の門を過ぎていく
城下町の目抜き通りだった「本町」
バター餅は、ミルクの風味が豊かでほんのり甘い。ねばりはほぼなく、やわらかいので娘(3歳)のお気に入りに
日本各地から、お客さんをお迎えしているそう
海はもうそこに。祠のある角を右へ

お客さんは満足して去り、こちらは迷わずバター餅をお願いして、明るい笑顔につられて話しかけてみた。「かなり古いお店なんですよね?(1752年創業!)」「ええ、そうそう。それこそお城(今治城)にアワビやらの海産物もね、持って行ったりしとったらしいよ」

「バター餅って、あんまりこの辺りでは聞かないけど、どういう由来が?」

「えーとね、息子や孫のほうが詳しいんやけど、たしか秋田のほうで狩人が猟にもっていく食べ物、らしいよ~」

なんでもお孫さんが大学卒業後、製菓コースに通い、先生とともに考案したレシピだという。今は海外に行ってしもて、と嬉しそうでも寂しそうでもある。歴史については息子さんがお詳しいとか。行くたびいろんなお話を楽しめそうな“町らしい”お店だ。

とりあえず海への道へ戻り、辻に設けられた祠で右へ。今治港が見えてきた。いまだ目新しい「はーばりー」(2016年オープン)でブランチにしようと思うが、バター餅はおみやげにして、港周辺でもう少し買い回りをしよう。

今治港に到着。赤い桟橋を見ると、旅に出たくなる
みなと交流センター「はーばりー」
展望所となっている、はーばりー屋上へ。お遍路は大三島の大山祇神社を参詣して回るコースもあるとか
かつては港に船が着くと、歩けないくらいの人通りだったという新町

はーばりーから横断歩道を渡り、「新町」へ。Cafe&Bake NAKAMURAYAでアイスコーヒーをテイクアウトする。店内にはこの店の前身「中村屋蒲鉾店」の看板も。冷たいキレのよい苦みが、一気にのどを潤してくれる。数軒先の老舗蒲鉾店「魚貞」では「キャベツ天」をチョイス。かつてはこの商店街に、魚介の風味豊かな今治名物の蒲鉾を売る店が軒をつらねていた。向かいには、魚屋の屋号を残した雑貨屋さんや倉庫をリノベーションしたカフェ、商店街入口には老舗の土産物店など、新旧がうまくミックスされたまさに“新しい新町”となってきている。ひとつめの角を右へ曲がり、はーばりーへと戻る道中、「一笑堂」(1790年創業)で「鶏卵饅頭」を購入。こうして、甘辛のブランチを調達した。

開港100年を過ぎた今治港にて

赤い桟橋を眺めながら、キャベツ天をかじると、期待通りのシャキシャキ感とさわやかな風味。鶏卵饅頭は蒸しタイプはふっくら、焼きタイプは香ばしく、ぽんぽんと口へ。

昨年開港100年を迎えた港町としては、今は静かな港だが、このところ大勢の人出があるイベントも増えてきた。最も盛り上がるのは、やはり「おんまく花火」だろう。約一万発の花火が夜空を芸術的に彩る、今治の夏のお楽しみだ。

潮風に吹かれて、夏のおさんぽ疲れを癒す甘辛ブランチ
はーばりー屋上から見る南光坊方面は、大小のビルと家々がどこまでも続いている
2023年7月、「土曜夜市」と「バルシェ」が同時に開催された新町と今治銀座。はーばりー周辺にも、楽しい夜を笑顔で楽しむ人々であふれていた

この花火の夜を、最近平静に過ごせるようになってきた、と話す人がいる。

市内の習い事教室に通うご縁で知り合った大先輩、明るくて機智に富んだ、気遣いの人だ。彼女によると、焼夷弾が落下する音が、花火が打ちあがるときの音とそっくりなのだそうだ。

「爆弾が落ちてくるときはね、次は、私の上に、次は私の上に爆弾が落ちてくる——!!!!!……って思うんよ」

いつもは楽しいおしゃべりを繰り広げてくださるのだが、これを聞いたときは、身を縮めるようにした彼女から、小さな女の子に戻った彼女が怯えて飛び出してくるような話しぶりだった。空襲が止み、防空壕から家へ戻ってみると、となりの田んぼに不発弾が何本も刺さっていたという。

「それでまた、それをね、兄がねぇ……」

と、ここからいつものお茶目な彼女に戻った。

「私に手伝わせて解体してね……」

「は?!解体?!」

「なんかあったらこれを、いうてトタン板なんか持たせて。そんなんで、どうならいねぇ、んっふっふっ」

なんと、兄妹はいくつもの不発弾の信管を抜き、当時鉄くずを集めていたところに運んでいったのだそうだ。

「そうするとね、お鍋やらフライパンやらをくれるのよ」

「え……。それって、ふつうのお鍋やフライパン?」

「そんなわけあるかね! 鉄の板をバンバンたたいて作った、なんかこんなふうに曲がったようなものよ!」

……人が前を向き、進む力には目を見張るものがある。

ふっふっふっ、はっはっはっと私たちは笑い合った。涙が出るほど笑った。このご縁の場を提供してくださる先生も、空襲でご家族を亡くされている。朗らかな先生のお稽古はいつも笑い声が満ちて、豊かな学びの時間が私たちの心に栄養をくれる。

彼女たちの笑顔が見られるならば、今治空襲からの復興は成し遂げられた、と言ってもよいのではないか。そして、そんな土台がある街ならば、未来にも光が射しているように思う。

なんだか故郷が、住み慣れた今治が、その傷跡を知るがゆえに、もっともっと好きになってしまうおさんぽだった。

構成・文・写真/薮谷恵(Flowers Know)